2009年1月5日月曜日

コンセプト

2008年7月13日に一時閉店した「こだわりとんかつと野菜のお店 きゃべつ畑」をギャラリーとして再スタートさせることにしました。

「きゃべつ畑」は東京造形大学がある横浜線相原駅近辺にあったとんかつ屋でした。
今でも、問い合わせの電話が多くかかってくるということからも分かるように、地域の人々から非常に愛されていたお店でした。
ギャラリーにするにあたり、お店のオーナーから、この地域の人たちは美大が近くにあるにも関わらず、
美大生と見えない距離を感じているという話を受けました。

確かに、「地域の人」との距離が存在するということは、私たちも日ごろから感じていたことではあります。
こういった人たちを「美術に理解がない」と言ってしまえばそれまでなのですが、そう言い切ってしまうのは、
美術をやっている者の驕りではないでしょうか。

この距離の存在は何も「地域」だけで見られるものではありません。
前述のように「地域の人」に向かって「美術に理解がない」という人は、現実問題としてさすがにいないと思いますが、
──例えば、ここでの「地域」という単位を、「地域」を内包する「社会」全体として捉えて考えてみたらどうでしょうか。
このように、規模が大きくなってしまうと、意外なことに「美術に理解がない」という美術関係者外へのレッテル貼りは、
さまざまな場所でまかり通っていたりします。社会と美術の関係を考えるにあたって問題となってくることは、
いかにして美術を社会に啓蒙するかということでもなく、社会に対してどういう風に迎合していくかということでもないはずです。

「理解」というのは「押し付けること」と同義ではなく、もちろん「媚びること」でもありません。
お互いを理解しあう為に、主張は尊重されなければなりません。つまり、なるべく偏りのない状態で、
意見がぶつかりあう場が必要になるのではないでしょうか。

お互いの本音が見えるような──私たちは、そういった場の提供が社会と美術をつなぐ足がかりになるのではないかと考えています。

先に、美術が社会に迎合していると書きましたが、分かりやすい例として、
ここ最近「アートプロジェクト」などの試みが俄かに増えている現象を取り上げたいと思います。  
昨今のアートプロジェクト・ブームは、社会に対して美術への関心を高めることに成功したと言えるでしょう。
しかしながら、これらのプロジェクトは、社会に対し、美術の「きれいな」側面しか見せてこなかったきらいがあります。
現在の美術が言及しようとしているものは、果たして「きれいな」事象に対してだけでしょうか?  
確かに、「アートプロジェクト」の性質上、民主的かつ公共的な価値の創出が主眼に置かれるのは当然のことであり、
試みが優等生的なものにまとまってしまうのは仕方がないことと言えます。それは決して悪いことではなく、
美術の可能性のあり方としては非常に意義のあることに違いないでしょう。
しかし、ここで行なわれていることはあくまでも「交流」であり、「理解」ではありません。
というのも、相手を本当に知ろうと思えば「きれいな」部分だけでは済まされないからです。
そして、この「アートプロジェクト」などに代表される八方美人的なアプローチが、私たちと社会をつなぐ唯一の接点となってしまった今、
──これらの繋がりを求める私たちが、「交流」と「理解」を混同してしまったことにより、「きれい“ではない”」ことに言及しようとする人たちは、
内輪の狭いコミュニティに引き篭もる──といった悪循環を生み出しているのではないでしょうか。
このコミュニティは非常に不透明で、何をやっているのか分からない不気味さを持っています。
この「不気味さ」こそが、社会と美術の溝をより深刻にしている原因であるように思います。
人々は、不気味な人たちが雨戸を閉め切った部屋で毒ガスを作っていると想像します。
もしかしたら、中では楽しいパーティーが行なわれているのかもしれないのに──。
本当は、実際見てみないことには分からないものなのです。

どちらの側に対してもバイアスの掛からない状況で、若い人々の作品を“内輪”ではなく“地域の中”に提示していくこと、
地域の人々も、好きな作品は好き、嫌いな作品は嫌い、と言えるような環境を育んでいくこと、
──私たちは、「Galleryきゃべつ畑」を美術と社会との相互理解の可能性の実験の場として提案するものです。




文  スタッフ 吉田 諒 武蔵野美術大学油絵学科2年在籍中